出会い・雑感(5.27) Os Dias da MadreDeus(5.27) 海と旋律(3.6) 陽光と静寂 アインダ(6.30) ライヴ・アット・オポルト「祭の輪」 ムーヴメント(6.30) |
出会い・雑感
あまりにも美しい音楽を聞かせてくれる、ポルトガルのグループ。 歌姫、テレーザの澄んだ声、優しいギターの響きが、静けさを、安らぎをくれる。 ポルトガルの青。この透明さは、痛いくらいだ。日の暮れてゆく海が、空の重さを身に受けるように、時には聞き手も一緒に沈んでゆく。(ぐり ホームページ「Bar L'Homme de Berlin」より) 私のマドレデウスとの出会いは、若かりし(?)20代半ば位。 カーラジオから突然流れてきたあの歌に、旦那ともども「打たれ」てしまい、なんというか、「歌と自分しか世界に存在しない」ような感覚にとらわれ、グループ名も分からぬまま、旦那が見当をつけてさっそくCD「陽光と静寂」を買ってきました。 以来限りなく聴いてきました。聴き込んでいます。(ぐり) 昨年の冬にマドレデウスの「海と旋律」を知り、それから心酔しています。とにかく深いですよね〜。でも重くない。哀しくて明るい、やっぱり「哀愁」っていってしまうのでしょうか。一時期毎日聞かされた子どもたちは最初、「怖い」と言っていたのですが、最近ではいっしょに歌ってます。 (ひかる) 「癒す」という言葉をよく聞きますね。 私は、乱用されたあの言葉をあまり好みません。 だから、マドレデウスを「癒し」とは表現したくない。 癒すことが本意ではない。その力すら持ってはいない。 なのにあの声は、私が我武者羅にしがみついてる力を失わせてくれる。 そこがマドレデウスのすごさだと感じるのです。(たき) 確かに癒される感じはします、が、もっと苦しい感じかなあ。見えない手のひらにすっとすくわれて、「どこかに連れてゆかれる」ように感じることもあります。(ぐり) 本当に癒すっていうのは、血まみれになることだと考えています。 自分の闇に向き合うこと。変わること。 癒されたいという思いを外に表すことって、実際にはとても勇気がいることです。それに、本当に癒すのなら、傷口を開いて見たくないものを直視しなくてはならないし。 ぼくチャンのことイイコイイコちて♪的なイヤシは癒しじゃない。 (梨屋アリエ witchML[02820]より) 最初に知ったきっかけは、中古で買った"Pray"というタイトルのコンピレーション・アルバム(東芝EMI)に入っていた"O pastor"を聴いたことでした。他のアーティストの作品が可哀想になるほど群を抜いて素晴らしいと思いました。そして、間もなく中古で"O espirito da paz"を手に入れることができ、聴いてしびれました。まさに「天上の音楽」という言葉がピッタリ当てはまると思いました。これに対して今年買った"O paraiso"は、タイトルとは裏腹に「地上の音楽」といった印象で……(略)。 「風薫る彼方へ」は恋愛など地上のこまごまとした事柄を歌っていながらも、天上とのつながりはしっかり保たれていると感じます。(泉泰弘) 以前、O espirito da pazは宗教的な感じを受けるが、O paraisoはまるで宗教歌曲から世俗歌曲にシフトしたような印象を受けるというようなことを書きましたが、Os dias da Madredeusもやはり世俗的な感じです。ただ、こちらの方からは何か港に一人で立っている時の寂しさというようなものを感じたのです。(O paraisoから感じたのは「大地(しかもそれほど高くない植物が生えている)」でした。)冒頭の独奏曲が典型的ですが、アコーデオン(音色や写真で見た感じではバンドネオンに思える)の響きがタンゴを思わせるために「港」を感じたのかもしれません。(そうでない曲もいくつかありましたが・・・・・)あるいは、Os dias〜は「海岸を吹く風」、O paraisoは「草原を吹く風」かな。(泉泰弘) マドレデウスを聴くと妙な境地に入りこんじゃうらしくって、胃が荒れて熱が出て頭が痛くなるんです。 でも、好きです。 命がけで聴かなくてはいけないので、たまにしか聴けません。 でも、好きなんです。 (略) とにかく、マドレデウスが世界を広げてくれたのは確かです。(梨屋アリエ) テレーザさんのボーカルが自分の周りの空間に満ち溢れる感じがとても好きです。 (そんじょ) 「哀しみ」とか「苦しみ」のその後にも平安がくるってことをいっているようなきもちになります。 おばあちゃん好きな私ですが、マドレデウスからは世のおばあちゃんから私が受け取っているそんな「人生いろいろあったけどいまがいちばん幸せなの」ってオーラに似たものを感じる。そのなかには辛い思いや、悔やまれる思い出もたくさん含まれてて、でもすべてを肯定してるんです。(ふなはし) |
Os Dias da MadreDeus
これが気に入って、毎晩かけながら眠ります。 安定剤と抗不安剤と睡眠薬なしではいられない神経衰弱的(そのもの?)の日々を送っていますが、このCDは安らぎです。ほんと。(寮美千子) |
近所の教会の牧師に「A Vaca de Fogo」(直訳すると「炎の雌牛」)の歌詞を見てもらいました。 「よくわからん」そうです(笑)。 「よくわからんけど、カトリックで罪とされていた同性愛者の存在に、旧来の道徳観を持った人達が混乱している様を表現しているんじゃないか。『炎の雌牛』が何をさしているのかはよくわからない。旧約聖書に牡牛を燃やす場面が出てくるが、それとは無関係だと思う。」とのことです。(加藤 浩司) ビデオ(les AÇORES de MADREDEUS)の中で、牛追いの祭りと頭上で炸裂するロケット花火や、規律ただしく行進していく鼓笛隊のことなどに言及して、ペドロが、Vaca de Fogoという曲の火のついた雌牛の話しを唄う意味は、伝統とそれを越えていくもの(マドレデウス)の関係を象徴しているのだと言っているシーンが印象的でした。 ポルトガルの友人にこの(歌詞の)os putosの意味をたずねたことがあるのですが単にchildrenではないかとの答えがかえってきました。(略)私はやはりこの曲のos putosは「ホモたち」ではなく素直に「子供たち」でいいのではないかと思いました。(横山伊登司) |
海と旋律
このアルバムの「雑然さ」は、前作「マドレデウスの日々」よりも大きくなっているように思いました。ただし、前作よりもエントロピーが大きくなってゴチャゴチャしたというのではなく、最初期の高エントロピーで未分化な状態が整理されて、その後のあらゆる方向への展開を予感させるような多様な個性を持った曲が生まれ始めているという感じです。 (ビッグバン後一様に分布していた初期宇宙にゆらぎができて星が生まれようとするところ、あるいは生物が多様な進化をまさに始めようとするところ、とでも形容したらいいのでしょうか。) 具体的に言うと、このCDには「陽光と静寂」に続いていきそうな曲(「魂の告白」「太陽の果実」「心の風景」)や、(編成は小さいものの)「アヴェ・ムンディ・ルミナール」に入っていてもおかしくないような器楽曲「ボローニャの午後」(オオボエを吹いているのは誰?)「至日の祭」(ミニマル・ミュージック風)がありますし、一部の歌曲のソフトな部分は「風薫る彼方」に継承されているかなとも思いました。(泉泰弘) 2曲目「海と旋律」と3曲目「船出」の取り合わせは絶妙だと思います。 尋常でない緊張感と激しい情念に初めから終わりまでずっと身を固くして聴いてしまう「海と旋律」に続いて「船出」のイントロが始まると一気に体の力が抜けるのを感じます。(加藤 浩司) (「ナヴィオ−船出/O Navio」について) 出だしがその曲の他の部分と少なからず違う印象を与えることから、僕はその曲の内でもとりわけその出だしが極感覚的なものなのではなかろうかと考えます。さらにはそう実感します。 これは作曲者も実感しているはずのことで、ある時、あまりにも感覚的に美しいフレーズを弾いてしまったがためにとってつけたか、その発見の後、曲として展開させるのにほんの少し失敗したか、とにかく曲全体としては多少の試行錯誤が感じられると思います。しかし、あの出だしはあまりにも極感覚的であり、もはや作曲者と感覚を同調させるしかない。(真否 誠) |
(加藤 浩司) 「海と旋律」の原題は「羊飼い」。更にアルバムのタイトルは「存在」。 どちらも原題のままでは日本では売れそうにないですね。 (泉泰弘) "O pastor"はそういえば「羊飼い」でしたね。僕にはpastorは「牧師」のイメージが強いもので・・・・ 「羊飼い」は新約聖書では迷える人を導く人、あるいは「人の子」、つまりイエスを指しますから、それが転用されて「牧師」の意味になったのではないかと想像します。 原題の"O pastor"にも宗教的な意味合いというのはないのでしょうか。 (ぐり) うろ憶えなんですが、めずらしくもクリスマスに教会に行った際、牧師さんの説教では、神の子が生まれるというしるしを、まず最初に羊飼いが見た。当時羊飼いというのは階級がとても低く、差別されている職業であったので、このことは大変意義深い。ちゅうようなお話でした。 詳しいことは知りません〜スタタタタ |
陽光と静寂
それにしても、"Concertino"の第3曲、"Destino"の冒頭部分は何度聴いても素晴らしいですね。他に例を見ないほど美しい器楽のアンサンブルのイントロに、これ以上はないという位自然なタイミングでテレーザの声が入ってくる。僕がマドレデウスに決定的に引きつけられたのは、ここをはじめて聴いた時でした。(泉泰弘)
夜が明ける前の、暗闇が辺りを一番濃く支配するその一瞬。 海のうねりを生むエネルギー。生命を育む大地の優しさ。 そんなものをこのアルバムから感じています。 (yu-gon) 「DESTINO」とても気にいってます。あえて原題で書いたのは、この言葉の意味に「運命」の他、「目的地」とかが有り、ポルトガル人の感覚をうかがわせる言葉の1つではないかと思い、「運命」と言う日本語のタイトルだけに絞りたくない気がするからです。行き着く所と運命が同じ言葉なんて、チョット粋じゃーないですか。(いまはし) なんて気持ちのいい音楽なんでしょう! 最初のメヌエットが流れた瞬間から、身体の隅々まで音が流れ込んで、心の奥からじんわりとほぐされていく感じがしました。 Concertinoは、4つで一つのまとまりなんですね? 一番好きです。これだけ何度も繰り返し聴いています。 大好きなスペイン映画「みつばちのささやき」のバックに流れる音楽に近いものを感じました。原題は「EL ESPIRITU DE LA COLMENA」で、作品中のセリフでは、ESPIRITU=>精霊と訳されています。 スペイン語の辞書を引いてみて、いくつも意味があるのに気づきました。「陽光と静寂」の裏に「精霊と平和」が潜んでいると考えるのも面白いなと思いました。(Hermana) う、うつくしい・・・・(:_;)(:_;)(:_;) (ひかる) |
(T) *3曲目の「運命」 これです!好きです。こういう「透明感」を私は求めていたんです。 出だしを聴いて、もう「この曲は声とぴったりだ!」って感じました。 そして最初のテレーザの声。なんなのーこの声!ほんとに声なのかしら。 これは「ニンゲン」の声じゃないよー(ほんとにそう思ってしまう)!! 色じゃないですよね、この曲は。楽器の音が声を邪魔してないと思う。 楽器の音も透明になってる。声と曲と楽器と。全てが何も遮ってなくて、すごいです、この曲。最初から最後まで、なんて幸せなんだろう……! 好きにならずにはいられないです、この曲を聴いてしまっては。 これから何週間か、この曲を聴き続けますよ、ほんとうに。 他のCDも買いたいな。まだまだあるんだと思うと…嬉しいなー。 *4曲目の「静寂」 これ・・・はー・・・(言葉がでないです(笑))。 どうしてこうも単純な、たったいくつかの音で、これほど多くを感じさせてくれるんでしょうね。 多くって、違うかな。「大きい」「深い」かな。 彼女の声・・・ことばにしたら汚してしまいそう。 この静寂って、ちっともさみしくないんですね。 あたたかいんだなー。ここにいるのは神さまなんじゃないかなあ。 「祈り」という曲があるけれど、この曲にも祈りがあると感じます。 孤独の中に祈りがあるし、祈りは静寂の中にある。静寂は心の中にある。 でも、心って独りだけど独りじゃない。独りで在りながら独りじゃない。 ちょっとうまく言えないのですが、包む空気みたいなものを感じます。 (加藤 浩司) で、この曲(運命)に「哀しみ」は感じませんでしたか? (T) もちろん深く感じますよ! でも、これは不思議です。なんなんだろう・・・なんかね、ほほ笑みを浮かべる超越した哀しみ、という感じがしますよ。 哀しみを湛えた透明なほほ笑みを前にしたら、何も言えないと思う。 「運命」の哀しみと「静寂」の哀しみと、繋がっているように感じます。 繋がっているというのは、同じという意味ではなくて、物語みたいに、大きな流れがあるように感じるんです。委ねてもいいんだなーと感じる。 圧倒的な安心感。この2曲をあんな風に繋げた意図があるんでしょうね。 (加藤 浩司) 「哀しい曲」というよりも、「ありとあらゆる哀しみを呑み込んだ曲」という風な。 マドレデウスの音楽の「哀しみ」を最も強く感じさせる曲のひとつだと私は思ってます。 (T) わかりますよ!その「哀しみ」。 全く「拒絶」を感じさせないんですよね。 あのように何も歪ませることなく呑み込まれたら、力で汚される哀しみも美しくなるわけです。 呑み込んで、そして「静寂」。 この「哀しみ」ってなんでしょうね。 聴いてると、いちばん、小さくて、傷つきやすくて、でも決してなくなったり壊れたりしない心の核の部分が、「ここにあるんだなあ」「自分にもあるんだなあ」と感じます。 核を覆っていた霧のようなものが、さあっと取り払われて、あらわれてくるような……。隠す力なんてないですね、あの声。 (加藤浩司) いわゆる「喜怒哀楽」を全て削ぎ落として限りなく透明にした時、残ったのは「美」であり「哀しみ」だったというのが、マドレデウスを聴いた時の私の感想でした。 (T) そうですね…削られて見えないものを透明に聴かせてくれるという感じ、すべてを惜しみなく内包し、それでいて透明、というような気がします。 まさに光…けれど、太陽というより月の輝き、金の光というより銀の光。 圧倒的な力ではなく安心する無力。拒絶しない強さ、受け入れる沈黙。 照らすのではなく限りなく注ぐ。…私はそういうイメージを持ちました。 |
(T) 「静寂」の冒頭がとても好きです。 こんなふうに… こんな出だしって「反則」です(笑)。 「こんなふうに」ってどんな風に? って思う方いらっしゃらないでしょうか。 やっぱり「運命」と「静寂」って繋がっているような気がするんですけれど… 「運命」と「静寂」に関する解釈など、どのようにされているのでしょうか? 私はこの2曲に「死」を感じます。 曲にも声にも詩にも感じるんです。 (泉泰弘) 前にも書きましたが、僕は「運命」の冒頭がメチャクチャに好きです。(「静寂」の冒頭ももちろん好きです。)あの部分を聴いているとヘンになります。 Tさんは「運命」と「静寂」に「死」を感じるとのこと。僕は「死」という直接的な言葉を思い浮かべたことはありませんでしたが、「静寂」には「安らかな眠り」というイメージが浮かびます。それが永続するものだったら「死」と同じですね。とにかく、これら2曲が「死」を表現しているとしても、そこには「救い」があります。出口のない、冷たい「滅」とは違うと思います。 (T) ここに、私が加藤さんに送った関連するメールの一部を引用させて頂きますね。 テレーザの声には「幕」がないと思うのです。「運命」を聴くと、私は無力になるのですよ。何かを支配する力がなくなる。 それは、泉さんのおっしゃる「安らかな眠り」に通じると思います。 上でも述べているように、私は(「人は」と言ってもいいと思います。)確かにテレーザの声や「運命」という曲を、「危険」だと感じる意識を持って生きています。 が、本当は、この曲に横たわる「安らかな眠り」が「いちばん安心」する状態なのです。 危険を感じる意識をもちながら、それでも無力になってしまう。安心してしまう。 そこがこの曲のすごいところだと思うのです。 すべては「危険を感じる意識」によって、つまり、「何かを見せようとか隠そうとか」いう力によって、私は危険を感じる。 それと「闘わねばならない」のが悲しい人間の業のようなものなのではないでしょうか。 けれどこの曲はそれを失わせてくれる。そういう意識を取り払ってしまう。 ・・・分かって頂けるでしょうか。 (加藤 浩司) 「生死を超越している」という言い方が自分の受けている印象に近いような気がします。 「悠久の流れ」と言っているから、やっぱり同じように感じているのかな。 そこには一種の怖さは確かにあります。 「危険」というのはそういうことだろか。 わかるようなわからないような。わかったことにしておこう。 (T) 全く同じですよ。ほんとに感性だけは合うみたいですね。うれしいぞ!(ホンネ) 私が「危険」を感じるのは「意識によって」、という意味がお分かりなら、きっとその「危険」も分かってもらえていると思います。私が言う「危険を感じる意識を超えて、安心し無力になる」ということの意味は、加藤さんがおっしゃる「生死を超越している」という言葉から、「意識を超越している」と言い換えても構いません。 (泉泰弘) 後のアルバム"O Paraiso"も「寂しさ」という点では共通していますが、"O Espirito da Paz"のConcertino以降の曲にはそれに加えて「厳しさ」というものを一貫して感じます。中でも"As Cores do Sol"と"Ao Longe o Mar"の2曲はそれが強く感じられるせいか特に好きなのです。 (T) ここで最初に書いたことにいきなり戻るんですが… 「静寂」の冒頭のことば、「Assim」って「こんなふうに」って訳されてますよね。この「こんなふうに」ってなんだか深いなあ、と感じます。この「静寂」の詩、ほんとうに好きです。わからないもやもやした感情が自分の中にあるんですが、まだそれが言葉にならない …うーん、出直そう…。 |
アインダ
最初の「ギターラ」はリラックスして聴けた。ところが、次の「奇跡」からたちまち緊張感が走り、地上から遊離したマドレデウスの世界に引き込まれる。聴き進むうち、これは大変なCDに遭遇してしまったと思い知らされる。「海と旋律」と同じく多彩な曲があるが、全体を驚くべきほどの統一感が貫いている。また「陽光と静寂」では最初にもの凄い名曲があるものの、それ以降は(緊張感は最後まで持続するが)やや単調な感じを受けるけれども、このアルバムにはそういうところが全くない。 そして、クライマックスが9曲目の「アインダ」に来るように見事に計算されている。緊張感の過度の持続を避けるために、2曲ごとに長調の器楽曲がクッション的に挿入されているというのも心憎いまでの気配りだ。うまい。この構成はうますぎる! テレーザの歌には最後まで一点の非の打ちどころもない。 (略) テレーザの歌でいつも感心するのは、どんなに高い音でも裏声で逃げないこと。(略)低音から高音まで同じ声で歌うことは確かに難しいけれども、そうしてこそ聴いていても不自然さがなく、感動もより大きくなるからです。(略) とにかく、裏声と感じさせることが「アインダ」ではなかった。仮に使っていても、それを聴き手に悟らせないのだとしたら、それは「プロの技」であると言えます。(泉泰弘) (2000.6.30) この歌(ギターラ/Guitarra)を歌う人は、自分の朽ちてゆく「屍骸」を入れる「箱」を、「心臓の形」、「ギターラの形」つまりその人の「生」そのものの形にしてくれと言っているのです。 ギターラと泣きに来る、この人の生、それを思います。(ぐり) |
ライヴ・アット・オポルト「祭の輪」
「祭の輪」、何かが融けるような気がするんです。テレーザのあの手を広げた振りのせいなのかもしれないのですが、よいです。歌に受け止められて、何かがあるかもしれませんが。涙が出ますよぅ〜。これでは分からないですかね。(--;;; 「歌」は各人にとって個人的な体験だと思います。 「祭の輪」について、文章にして掲げることは難しいです。 私はこの歌に「赦される」気がします。苦しいものが融かされる気がします。聴く人がこれまでどんな道を歩んできたか、そういったことが歌を聴く時にあらわれると思うのです。 「罪」「祭」「踊り」「歌」、これこそ人間。(ぐり) 古典風で魅力的なメロディで歌われるこの曲の歌詞を読んだ時、正直に告白するならば(笑われるかもしれませんが)ある種の『後ろめたさ』を覚えてしまったのです。そして泣きそうになってしまったことも。 さっき去年のライヴのビデオを聴きなおしていたのですが、やはり何度聴いても同じ、その感じは変わらない。歌が終わったとき、手にもっていた歌詞カードを思わず放り投げてしまいました。 いらっしゃいと言ってるけれど、そこへは行くことのできぬわが身の悲しさ。しかし、テレーザはやさしい。 なぜだと言われてもいまは(も)はっきりと言葉にすることはできませんが、少なくともこの曲は、私にとっては、悲しく深い意味のある曲なのです。 (略) ただ、私はまだ『赦されていない』ような気がしてならない。(f.h) 歌詞の内容については、私は、かってに次のように解釈しています。 踊る阿呆に (pecadores=宗教上のつみびと) 見る阿呆 (Senhoras, Senhores=紳士淑女面した見識者ぶった傍観者たち) 同じ阿呆なら、 (人はみな同じように原罪を負っているのだから) 踊らにゃそんそん。 (ヴィーラを踊ることは罪ではないので、一緒に踊りましょう) マドレデウスを阿波踊りといっしょにするなと、反感を買うかもね。だけど、ヴィーラというのは、あくまで大衆の踊りであって、貴族やハイソサイティが社交会などで踊る踊りではないのじゃないか (断言できませんが )と思います。 Folioes(祭の輪)の歌詞の大意は、阿波踊りの「よしこの」の精神と同じだと思いますが、いかがでしょうか。(横山伊登司) |
ムーヴメント
Movimentoは、マドレデウスのこれまでの作品の中でも、最高峰に位置すると言えるのでは。伊達に4年間新しいアルバムを出さなかった訳ではなかった。 音がナチュラルで、木の匂い、石の匂い、壁の匂いが直に伝わってきます。これまでのものは、若干スタジオの匂いを感じてしまうのですが、今回のは、それがほとんど無い。曲と曲の間の雰囲気や音質のギャップも無い。 表面的な衝撃(こけおどし)が少ない分、じわっとスパイスが効いてくるような感じです。そして、しだいに歌詞の言葉そのものに、心が誘い込まれてゆくのです。(ジョアキン) これまでは室内楽のような音作りだったのが、戸外で演奏しているような空間の広がりを感じさせる音です。安穏な住み家を捨てて流離いの暮らしに戻った楽団が、どこかの街角や野原で類い稀な調べを奏でているようです。と言っても原点回帰ではなく、何かを突き破って新境地を開いた、というところです。ジャケットの絵や「妖艶」という形容が似合う変貌を遂げたテレーザにもそれが現れているような気がします。新世紀を迎えて敢えて従来のスタイルを壊してみた、というほど深い意図があるかどうかは分かりませんが、さらに変容を続けるマドレデウスは一体何処へ行くのだろう。自転車に乗って丘を越えて、さらに新しい地平を目指すのでしょうか。(冬月) 「アインダ」までの作品は極上のミネラル・ウォーター、あるいは一本筋の通った吟醸酒に喩えられるが、一種の遊び心、余裕というものが感じられる「風薫る彼方に」は、それまでのように直線的に至高の境地を目指すのではなくて、平面的な拡がりというものが加わった。(略) そして、再び内面的な厳しさが感じられるようになった「ムーヴメント」は、言ってみればそこに厚みが加わって3次元的な展開を見せ始めているのではないだろうか。(泉泰弘) |
(CDジャケットのイラストについて) なんだか絞首刑の光景みたいにも見えてしまう。(ぐり) 僕も1つに絞首刑だと思ったんですよね。 絞首刑台の一番左の人は首を絞めているのか、死刑台を山頂まで引っ張っているのか、わからない。 その後ろを楽器を担いだ5人が自転車でゆっくりと走り、坂をのぼっているようです。 表紙は海と陸にも見えますね。姨捨山のようにも見えますね。 全体的に何かぞくぞくするものがありますね。(真否 誠) 絞首刑というのは、ごもっともではあります。でも、ちょっとアウシュビッツ的連想で、やっぱり恐い。 ここはやはりカトリック的に発想してみたい。坂道を見たら、まずゴルゴダへの苦渋の道を思い起こすべきか。とりあえず、想像の根底に据えて置こう。かといって、この行列の先導者らしき者は、十字架を背負っているわけではない。しかし、何か重圧に耐えるかのように、苦しげである。やはり心に十字架を負っているのだろうか。ポルトガルのある村の長老と言ったところか。三日月形の顔のようにも見えるので、上方漫才のタイヘイ糸路師匠であるという説もある。 さて、問題の処刑台だが、カトリック的に子細に点検するとロケット台ではなさそう。やはり白いベールを被ったマリア像に見える。このマリア像は、昔、村人が海で漁をしている時、網にかかったものだという言い伝えがあり、麓の教会にまつられている。だが、年に1度「聖ナントカの日」には、山の頂きに立てられた石の十字架までの道を、輿に像を載せて往復する祭りが開かれる。 キリストの苦難などを想起しながら厳かに歩く。台は重いし山道はきつい。担ぎ手は顔面蒼白、足は棒のようになる。この血の気の失せた、生死をさまようような雰囲気があるがゆえに、「絞首刑」を連想する人がいても不思議はないのである。 最後のグループは当然マドレデウス。行進を終えた村人達には、飲めや歌えのお祭りが待っている。その出し物として呼ばれたのが、マドレデウスだ。彼らは近年、CDの売り上げも落ち、ドサ回りで糊口を凌いでいる。テレーザは子供のミルク代にも事欠くありさまだ。車も売り払い、自転車で各地を回る旅芸人と化している。そんな彼らにとって、祭りでの仕事は、うれしい。出演料のほかに、ただで飲み食いできる。坂道は辛いが、心はうきうきである。 前を行く行列に死相が漂っているのと対照的に、自転車の一行は能天気にさえ見えるのは、このせいである。 こんなことをダラダラと、仕事中に書いていていいのだろうか。(ジョアキン) 僕は建築の仕事をしているせいか、何かの「塔」を皆で支えあって立ち上げているシーンに見えて仕方ありません。これから何かを立ち上げ、そして発信しようとしている姿。これこそ新たなムーヴメントを引き 起こす予感。。。(前田 修) |